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Posted by 滋賀咲くブログ at

2020年07月23日

雨上がりの探検。。。



私は雨が好きだ。
小さい頃はもっと好きだった。
なぜって、お洗濯の心配をしなくて良かったから。

雨上がりの道、草むら、髪の毛・・・不思議なにおいに包まれながら、絵にも描けない、時にも書けない世界について考える。。。
そんな時間が何より好きだった。






    雨の言葉
         立原道造
わたしがすこし冷えてゐるのは
糠雨(ぬかあめ)のなかにたつたひとりで
歩きまはつてゐたせいゐだ
わたしの掌は 額(ひたい)は 濕つたまま
いつかしらわたしは暗くなり
ここにかうして凭(もた)れてゐると
あかりのつくのが待たれます


そとはまだ音もないかすかな雨が
人のゐない川の上に 屋根に
人の傘の上に 降りつづけ
あれはいつまでもさまよひつづけ
やがてけぶる霧にかはります……


知らなかつたし望みもしなかつた
一日のことをわたしに教へながら
靜かさのことを 熱い晝間のことを
雨のかすかなつぶやきは かうして
不意にいろいろかはります
わたしはそれを聞きながら
いつかいつものやうに眠ります

「拾遺詩編」(1935~36年の作品)
 岩波文庫の「立原道造詩集」






私は雨が好きだ。
小さい頃はもっと好きだった。
なぜって、雨上がりの探検が、いつもより特別なものに思えたから。。。


  


Posted by 白谷仁子 at 21:39私。。。立原道造

2020年07月15日

「はじまり」は「出会い」〜歌をとおして。。。



「はじまり」は、どんな事にもある。
ピアノや歌を教えている私にとって、その「はじまり」の瞬間は、素敵な「出会い」の瞬間となって心に刻まれる。。。





今までどれだけの「出会い」と「始まり」があっただろう。
ふとした瞬間に、その場面がドラマを観ているように思い出されることがある。

真剣になりすぎて反省したり、親御さんとの人間関係に悩んだり・・・
でも、その真ん中にはいつも愛おしい子供達の成長があった。

頬ずりしたくなるような小さなかわいらしい手は、たった数年で私の手の大きさを超えていく。
その嬉しい瞬間は、30年経った今もほのかな寂しさを伴う。。。





昨日は5ヶ月ぶりのヴォイストレーニング・レッスンを対面で行った。
窓を開け放した広々とした公民館に、メンバー3人は大きく間隔をとり、マスクをしたままのレッスンだった。

「自分の声が聞こえすぎてこわい〜・・・」
「変顔で歌ってもマスクしてれば気づかれなくて良いですよね。。。」

和気藹々と楽しい空気の中、60分のレッスンはあっという間に終わってしまった。

今年の2月後半から、メンバー限定のYouTube配信を使ってのオンライン・レッスンのみだったせいか、「みんな一緒」というだけで、それぞれが嬉しかった。
歌い始めて10分も経つと、離れている仲間の声をちゃんと聞き合える。
積み重ねて来た信頼関係は、息づかいや歌声が表現してくれる。





夜、中学生の生徒達がピアノのレッスンにやって来た。
たった数ヶ月で、身長も手も、私と変わらないくらい成長していた。

最後のレッスンを終えて、この数カ月で良くなったところを生徒と話し合った。

「コロナ・ステップだね。」
私にそう言わせてくれた生徒達の頑張りが、泣きそうになるくらい嬉しかった。
そしてその瞬間、私もまた小さなステップ踏んだ。

ズーム、スカイプ、ユーチューブでのレッスン。
この5ヶ月、色々と工夫してやって来た。
確かにピアノも声楽も、対面での指導に勝るものはない。
でも、教室の子供達もコーラスのメンバーも、この間、それぞれがちゃんとステップアップしている。

「人間って、ホント凄い。。」
こんな言葉がマスクの中を嬉しさでいっぱいにした。

長い一生の中の、ほんの一瞬の「はじまり」と「出会い」。
そして、いつか来る「おわり」は、心にまた新しい「はじまり」の種をまいていく。

そんな出会いをくれる歌を、音楽を、これからも大事にしていこうと思った。。。



  


2020年07月04日

思慕の念。。。



今日、7月4日の誕生花は、小さな可愛い捩花(ネジバナ)。
花言葉は「思慕」。。。。。


《捩花(ネジバナ)花言葉「思慕」》



ルッチプラザ の2階から外に出ると、屋上緑化のお庭に咲くアガパンサスやヒベリカムが咲いていた。
コンサートやコーラス指導で数え切れないほど通っていたのに、ゆっくりお花を眺めたのは初めてだ。
ましてや、アガパンサスの茂みの中に咲く小さなピンクのお花の存在など、気にかけたこともなかった。

1月、ガラス越しに見えるホワイエはお客様やソリスト、オーケストラ・コーラスのメンバーたちでいっぱいだった。

あれから半年、私は2月のパリでのリサイタル以来、自分の歌は殆ど歌っていない。
悲しいほど歌う気がしなかったのだ。

「私が歌っているのではない。歌は私自身なのだ。」ずっとそう言ってきた。
共に音楽を作り、コンサートを作り、それを聴いてくれる人たちが大好きだった。
大好きな人たちに会えないのに歌うことの無意味さが、どうしようもなく私を寂しくさせた。





ホールに入ったのは、1月のコンサート以来だった。
賑やかしく感じる無音の空間。
声を発する直前の息。
何もかもが生々しく心の中から飛び出してくる。

「人はどうして歌うのだろう・・・」
ずっとそう思って歌を続けてきた。

私の中の「思慕」は、歌うこと。
そして「思慕の念」は、「人」たちなのだ。




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