
2022年04月20日
Happy birthday dear Mama
「今までで一番よかった。今度はいつ?」
コンサートが終わった翌日、母は必ずこう聞いた。
歌が大好きで、炊事をしていても掃除をしていても、母はいつも歌っていた。
高校の時に声楽家を夢見て、コンクールや地域の大きなイベントには必ず呼ばれて歌っていたと祖母から聞いていたが、母は声楽家にはならなかった。
「才能も無いし、あんたみたいに度胸がなかった。」
と、母はよく言っていたが、おそらく私よりも母の方がずっと才能があったはず。
それに母は本当に頭の良い人だった。
商家だった母の実家は、間口は狭いが奥にとても長い町家で、私はその「おやもと」に泊まりに行くのが何よりも楽しみだった。
「お前のお母さんは、100点ばっかとってきたぞ、お前も一番になれよ。」
夜になると祖母の布団に潜り込み、こんな話を聞きながら『おばあちゃんのあたたかなにおい』の中で眠りに落ちた。
「ひろちゃん(母)は賢い子でべっぴんやったよ。級長ばっかやっとったに!」
祖母だけでなく、商店街の駄菓子屋のおばさんにもこんなことを言われ、自分の知らない母の話に少し違和感を感じていた。
なぜなら、母は典型的な専業主婦で、私は「勉強しなさい」と言われたことは一度もなく、「勉強」「競争」とは無縁に、べったりと母に甘えさせてもらって育ったからだ。
声楽家になりたいと言った時、母はとても心配し、体が楽器であることの大変さをよく聞かされた。
多分、東京の音楽大学を受験する直前に体をこわし、やせ細り視力を失いかけ、音大行きを断念した自分のことを思い出していたのだろうと思う。
どんな未熟な歌でも、母はいつも「あんたの歌が私は一番すき!」といって、良いところばかりを何度もなんども繰り返し伝えてくれた。
それは大学を出てからも同じだった。
コンサートはいつも、娘を一番よく見ることのできる場所を選んで座っていた。
「お母様、いつも特等席で聴いてらっしゃいますね。」
意味ありげに笑いながら言う人もいた。
でも仕方がない。母は私の一番のファンなのだ。
共演者への心遣いも欠かさず、そしてコンサートが終わると目立たないようにそそくさと帰っていく・・・
そんな母の心が愛おしかった。
「お父さんが、あんたのコンサートの後いつも”幸せや!もう死んでもええわい”って言っとるよ。」
ここ数年、思うように活動ができない間、母のこんな言葉をよく思い出していた。
父と母の姿を客席に見ることが出来なくなって数年が経った。
それでもその姿を探す習慣は、いまだに無くならない。
父と母を会場に連れてこれるギリギリのところまで頑張ってくれた兄が、いまは両親の代わりに聴いてくれている。
会場に来てくださるすべての方に思いを届けようと歌い、演奏することお大切さを、私は両親から教わった。
母のお誕生日プレゼントは真っ赤な苺。
そして、次のコンサートへのスタートをきった記念の写真。。。
”Happy birthday dear Mama”
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2022年04月10日
詩人 野口雨情 生誕140年に寄せて。。。
今年、2022年5月29日は、童謡・民謡詩人である野口雨情の生誕140年にあたります。
2013年、CD「白谷仁子 日本の歌シリーズ 野口雨情の童謡と民謡 “やがて土に”」(piano 竹中直美)が完成し、多くのステージで雨情の童謡・民謡を歌ってきました。
野口雨情の詩の世界と私。
この節目のときに、また新たな気持ちで、「やがて土に」という雨情の言葉と向き合って見たいと思います。

私が北茨城市磯原に訪れたのは2011年1月27日、震災の起こる43日前の事でした。
そしてその日は、詩人〈野口雨情〉の命日でした。
その日、野口雨情生家を訪れた私は、その落ち着きある佇まいに、何か『懐かしさ』のようなものを感じました。生家の2階の窓から見える海を眺めていた私の目の前を、大粒の雪が舞い始めた頃には、もうすっかり雨情の童謡・民謡の世界に引き込まれていました。
思えば、物心付いた時から雨情の童謡は私にとって、とても身近なものでした。
それは特別誰かに習ったわけでもなく、ただ、毎日のように家のどこからか聴こえてくる母の歌声が、私と雨情との出会いを作ってくれたのです。
ある時は足踏みミシンの「カタカタ・・」という音と共に、ある時はまな板の「トントン」という音と共に。
時折夕暮れ時に聴こえてきた母の歌う《赤い靴》は、私を言いようのない寂しさで包み込みました。
物悲しいメロディーにのせて歌われる、「いっちゃった」というフレーズは、子供心に『戻れない』『引き返せない』という、深い悲しみを感じさせました。
私が、赤い靴を履いていたきみちゃんという女の子が実在していたという事、そしてこの歌にまつわるエピソードを知ったのは、ずっと後になってからの事でした。
不思議なのは、幼い私が耳にした母の歌う《赤い靴》の印象は、その事を知った大人になった今も、全く変わらないということです。
〜 CD「白谷仁子 日本の歌シリーズ 野口雨情の童謡と民謡 “やがて土に”」から〜
赤い靴
『青い眼の人形』から
赤い靴 はいてた
女の子
異人さんに つれられて
行つちゃった
横浜の 埠頭から
船に乗つて
異人さんに つれられて
行つちゃった
今では 青い目に
なつちやつて
異人さんのお国に
ゐるんだらう
赤い靴 みるたび
考へる
異人さんに逢ふたび
考へる
「小学女生」大正10年12月。
「小学女生」に掲載された初出形では第一連一行目〈はいてた〉→〈はいてゐた〉。第二連二行目〈船に〉→〈汽船に〉。第四連二行・三行・四行目〈考へる/異人さんに逢ふたび/考へる〉→〈思ひ出す/異人さん見るたび/思ひ出す〉である。
2022年04月01日
我が子羽ぐくめ 天の鶴群。。。
旅人の 宿りせむ野に霜降らば
我が子羽ぐくめ 天の鶴群
《伊夫岐神社の大椿》

いつだったか、母が目を細めて言っていたことがある。
「いくつになっても我が子はかわいい。その気持ちはちっとも変わらない。自分よりもうんと大きくなって、ずっとしっかりしていても、それでもかわいい。。。」
あの時の母の言葉に託された色とりどりの寂しさは、いま私の心の中であまりにも鮮明だ。

我が子とずっと共にいられることは、決して当たり前ではないのだと知った瞬間があった。
自分の大切なもの全てと引き換えに、我が子の命を願い祈った40日があった。
旅人の 宿りせむ野に霜降らば
我が子羽ぐくめ 天の鶴群
椿の実がはじけるように。
母の祈りは遠く、母の祈りは強く、母の祈りは終わりがない。
ただ幸あれと、ただ幸あれと。。。

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